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那の津

那の津のジェイコムば知っとうね?
青かビルにオレンジかボールののっとう建物やろ?

「那の津」って何?

J:COM 福岡の社屋がある辺り一帯の地名を「那の津」と言います。博多湾に面した埋立地で、港があることから、倉庫が多く立ち並んでいます。大昔からあった土地でないことは分かりますが、地名の「那の津」には歴史があるんですよ。

那の津の「津」はどこから来たと?

まず「津」から説明しましょう。
「津」という言葉は、古く8世紀・万葉の時代から「船つき場」「港」を表す言い方として文献に見られます。従って、「那の津」は「那の港」という意味になりますね。
次の地名は、福岡市内及び全国各地の「津」のつくものです。どれも海や湖などに面した土地ではありませんか。

「~津」の地名

荒津(中央区) 那の津(中央区) 今津(西区) 多の津(東区)

唐津(佐賀県) 中津(大分県) 坊津(鹿児島県) 室津(山口県) 宮津(京都府)
大津(滋賀県) 津(三重県) 直江津(新潟県) 焼津(静岡県) 木更津(千葉県)

那の津の「那」はどこから来たと?

「那」は1784年(天明4年)に志賀島で出土された金印に記されている「漢の委(倭)の奴の国王」の「奴(な)」から来ていると考えられます。 つまり、「奴(那)」 というのは、1世紀頃福岡市あたりを支配していた国の名前なのです。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀・・・
倭国之極南界也 光武賜以印綬

建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。・・・
倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。

『後漢書』巻115・東夷伝

上の文章は、中国の皇帝が日本の国王に金印を渡したという『後漢書』の一節です。内容は、"西暦57年に日本の奴国の使者がやってきて、中国の皇帝に拝謁した。その国は、日本の南の方にある。光武帝は印綬(金印)を賜った。"というようなことで、奴の国は外交に力を注ぐ国であったことが分かります。漢字は違いますが、「那」は約2,000年ほど前の古代国家の名前に由来している言い方と言えますね。
また「奴国」は『魏志』倭人伝に邪馬台国に至る途中の国として対馬国・一支(壱岐)国・末盧(松浦)国・伊都国などとともに見られます。3世紀も前半の頃のことです。

(1)修造官家那津之口。

官家(みやけ)を那津(なのつ)の口(ほとり)に修(つく)り造(た)てよ。 —宣化元年(536年)—

(2)御船還至于娜大津。

御船還(かへ)りて娜大津(なのおほつ)に至る。 —斉明7年(661年)—

『日本書紀』

その後上の文章(1)(2)のように『日本書紀』(720年成)に「那(娜)の津」という言い方が出てきます。
6世紀〜7世紀頃、「奴国」はなくなっていましたが、現在の福岡市あたりを「那」と呼んでいたことが分かります。
「博多」という言い方は、この後『続日本記』の759年の記述に「博多大津」と見えるものが最初と言われています。つまり、「那」は「博多」を表す7世紀頃までの古い言い方なんですよ。

那の津 → 博多の港

そこで、「那の津」は今で言うと「博多の港」ということになりますね。

このように8世紀以降「那」は福岡市あたりの地名として使われなくなってきましたが、このように古くいわれのある言葉ですので、この土地が埋立地として新たに開発された時よみがえることになったのでしょうね。
なお、この「那」という漢字が使われているのは、福岡市およびその周辺では、福岡と博多を隔てる川である那珂川が有名ですが、地名としては那珂(博多区)・那の川(中央区・南区)や筑紫郡那珂川町などがあります。