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「オイサ!オイサ!」の掛け声で博多に夏の訪れを告げる風物詩「博多祇園山笠」。聖一国師はこの博多祇園山笠の創始者として知られる有名なお坊さんです。国師さまは30代の頃に中国へ留学し、帰国後博多で承天寺を開山しました。ある年の夏、博多の町に疫病が流行り、多くの人が命を失います。「このままでは博多の町には人がいなくなってしまう。なんとかしなければ・・・。」疫病をおさめるために国師さまは何をしたのでしょうか?山笠の始まりといわれるエピソードをご紹介します。 |
西暦804年、「四つの船(=遣唐使船)」に乗って博多の津より唐(中国)へ渡ったお坊さんたちがいました。「お大師さん」で広く親しまれている弘法大師「空海」(こうぼうたいし・くうかい)と伝教大師「最澄」(でんきょうたいし・さいちょう)です。決死の覚悟で中国へ渡り、無事に仏教の勉強を終えた二人は帰国し、まず福岡でお寺を開きました。それが博多区にある東長寺と古賀市にある独鈷寺(とっこじ)です。全国に数多く残る空海と最澄の伝説が福岡にもたくさん残っています。 |
「○△□」の絵をはじめユーモラスな禅画で知られる江戸時代の有名なお坊さん「仙 |
幕末三大歌人の一人。裕福な福岡の商家に生まれた言道は39歳で家を弟に譲って作歌に専念。60歳で大坂に移り、12年をかけて「草径集(そうけいしゅう)」という歌集を出版します。生前たくさんの歌を残すも評価されず、ようやく世に知られるようになったのは死後100年を経てからのことでした。歌の用語の自由斬新さには特色があり、今日では近代和歌の道を開いた先駆者として高く評価されています。 |
博多駅前にある人参公園をご存じですか?そこはかつて人参畑で「人参畑塾(正式には興志塾)という塾があり、有名なおばさんがいました。その人の名は高場乱(たかばおさむ)、生涯男装を貫いた女性です。塾生たちは他では入塾を断られるようなあらくれものが多かったのですが、乱はそんな若者たちを深い愛情を持って指導しました。後に、塾の卒業生の中から玄洋社という政治団体が生まれたことから、乱は「玄洋社の生みの親」とも呼ばれています。 |
明治43年(1910年)、福岡市で初めて電車を走らせたのが、のちに「電力の鬼」と称される松永安左エ門です。当時電力は最大の産業とされていた時代で、安左エ門は「より安く、より多くの電力を大衆に供給しよう」と電気事業に携わります。やがて東邦電力という電力会社を設立、業界の実力者としての地位を固めますが、時代は第二次世界大戦へ突入。電力事業は国に没収され安左エ門は業界を引退してしまいます。しかし戦後の電力再編成において、「電力の鬼」は再び甦ったのです。 |
昭和29年、福岡市で、日本で初めて知的障害児童学校「しいのみ学園」を設立した |
天明4年1792年、福岡に東西二つの学問所が誕生しました。東の修猷館、西の甘棠館(かんとうかん)です。甘棠館の校長に任命された亀井南冥は豪快な性格で、学生達は身分を問わず、自由放任、個性を尊重し福岡武士に大きな影響を残しました。学深く才たけた南冥は、志賀島で発見された金印を「漢委奴国王印」と断じ今日に大きな功績を残しましたが、晩年、自由な気風で人気を博した西学問所と亀井南冥に、波乱万丈のドラマが待っていました。 |
善三郎は「日本人の油絵」を終生貫き通した福岡市出身の洋画家です。幼少の頃は修猷館で学び、のちの日本洋画壇の重鎮・中村研一らと共にパレット会を創立して絵画の制作に励みました。しかし家出同然で上京、独学で渡仏し、エコール・ド・パリの影響をうけながらも、桃山時代の障屏画、琳派、南画など日本の伝統絵画の造形を油彩画の中に採り入れ、豪放華麗で細部にとらわれない独自の様式を確立しました。 |
文学者、歌人、国学者、そして尊王討幕を唱えた志士・平野国臣。その半生を国事に捧げた国臣は福岡藩に仕える身分の低い足軽の次男として生れました。大きく変動する時代の流れに触発され、尊王攘夷運動に身を投じます。さらに1858年(安政5)に脱藩し上京。京都から九州間を従来する中で、野村望東尼や西郷隆盛との親交もあり、積極的に国事運動の活動を始めます。しかし晩年、幕末を炎のように駆け巡る国臣に悲劇の死が待っていました。 |
元祖博多タレントといえばおなじみの川上音二郎。14歳で家を飛び出し上京、職を転々とした後、明治20年代、陣羽織を着てハチマキを締め、手には日の丸の軍扇を持ち、袴をはいた出で立ちで唄ったオッペケペー節が一斉を風靡しました。その勢いに乗って立ち上げた劇団では、時代にマッチした現代劇が次々と大ヒットを飛ばし、活躍の舞台は国内にとどまらず世界に広がります。 |
幕末の動乱期に勤王の志士たちが母のように慕う女性がいました。女流歌人 野村望東尼です。彼女は夫と共に平尾村の素朴な山荘に隠棲、和歌を詠んで暮していました。今も残る平尾山荘は、そのゆかりの地です。夫の死後、尼僧となった望東尼は幕末の時代に強い憂国の情を抱くようになります。次第に平尾山荘は静かな歌会の場から志士の隠れ家へと変貌していきました。そしてついに望東尼も姫島の牢獄に幽閉されてしまうのです。 |
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