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<title>撤去：：リモコンでロードショー</title>
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<copyright>Copyright 2009</copyright>
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<title>ファーゴ</title>
<description><![CDATA[<p> 今年もまたアカデミー賞の季節になった。映画賞はたくさんあるのに、ハリウッドのお祭りはいつも華やかで注目度も抜群だ。この時期は各局がこぞってアカデミー賞絡みの作品をまとめて放映してくれる。一つでも賞を取ると、今後何かと放映・上映の機会が増えるわけで、そういう意味でも映画人にとっては重要な賞であることは間違いない。この『ファーゴ』は、昨年のアカデミー賞をはじめ、マスコミ関係の映画賞などで絶賛を浴びた『ノーカントリー』のジョエルとイーサンのコーエン兄弟が製作（イーサン）と監督（ジョエル）したユニークな名作。二人が書いた脚本の他、主演のフランシス・マクドーマンドも主演女優賞に輝いた。</p>
<p>アメリカ中北部の田舎町でカーディーラーの男（ウイリアム・Ｈ・メイシー）は借金返済のために自分の妻を誘拐し、会社のオーナーでもある義父から身代金を要求する計画を立てる。実行犯は奇妙な二人組、カール（スティーブ・ブシェーミ）とグリムスラッド（ピーター・ストーメア）。だが妻を誘拐した二人は、隣町まで逃げたところで、停車を命じた警官と目撃者を射殺してしまう。妊娠してお腹の大きな女性警察署長マージ・ガンダーソン（Ｆ・マクドーマンド）は事件を追うが、その間にも無軌道な誘拐計画は別の犠牲者を産んでいくのだった。</p>
<p>実話を基にした犯罪ドラマという謳い文句でありながら、実は全くのフィクション（監督談）というところから人を食っているが、随所に印象的なセリフをちりばめた脚本の巧みさに舌を巻く。アクション・シーンなど皆無であるのに、この先どういう展開になるのか、全く目を離せないストーリー・テリングが魅力だ。さらに印象的といえば、登場人物の造形と役者の個性だ。うだつの上がらない誘拐依頼者、何をしでかすのか分からない実行犯の二人、大きなお腹を抱えて事件を追う警察署長など、個性豊かな登場人物を眺めているだけでも楽しい。それを演じる俳優たちも、どこにでもいるように思わせながら、一度見たら忘れられないような特徴のある顔つきが見事に並んでいる。特に、優しい夫に恵まれ、家庭人として幸福な生活を営む女署長の奮闘ぶりがひときわ心に残る。雪に覆われた土地で頬を赤く染めながら犯人を追う彼女を、観客はみな固唾を飲んで応援するに違いない。</p>
<p>もともとインディペンデント系で名を馳せたコーエン兄弟のこと、カメラ・アングルやカット割りも凝りに凝っており、うるさ型の映画ファンも唸らせる出来栄え。11年後の『ノーカントリー』でどのように進化しているのか、じっくり味わいたかったのだが、こちらは劇場で見逃してしまった。ああ恥ずかしい。</p>
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<pubDate>Fri, 13 Feb 2009 17:18:27 +0900</pubDate>
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<title>ロード・トゥ・パーディション</title>
<description><![CDATA[<p> 名優ポール・ニューマンが８３歳で亡くなってもう３ヶ月が経とうとしている。今年の物故者の中でも一際残念な思いを感じた人も多いのではなかろうか。このところ各局で追悼としてたくさんの出演作が放映され、特に古い作品が見られる機会が増えた。複雑な心境にはなるが、まとめて観られるのは実は嬉しかったりもする。昨年は俳優引退宣言を出したりして、すでに第一線を退いた形にはなっていたが、劇場用作品に役者として関わったのが、この『ロード・トゥ・パーディション』である。役柄はトム・ハンクス演じるマフィアの殺し屋を、自分の息子以上に可愛がるボス。アイルランド系組織という設定で、クールな表情の中に熱い情念をたぎらせた人々が多い中、特別な存在感を持った大物を演じていた。でも正直に言うと、年を取ったなあとある種の感慨も起させる役柄と演技ではあった。</p>
<p>１９３０年代の雪の降るイリノイ州の町。２人の息子の良き父親として家庭を営むマイケル・サリヴァン（Ｔ.ハンクス）には、町を牛耳るアイルランド系マフィアの幹部という裏の顔があった。マイケルはボスのジョン・ルーニー（Ｐ.ニューマン）から息子のように愛され、マイケルの２人の息子にも実の孫のように接する。そんな父ジョンに対する実子コナー（ダニエル・クレイグ）の思いは複雑だった。ある日、組織の幹部会でコナーは失敗をジョンに責められ、精神的に追い詰められたコナーは、サリヴァンに対する嫉妬と憎悪を膨らませ、家族を巻き込んで命を狙う。ここから殺し屋同士の壮絶な逃亡と追跡の日々が始まるのだった・・・。</p>
<p>殺し屋が息子と二人で追っ手から逃亡する姿から、ギャング版「子連れ狼」として話題になった。親子の情ということに関しては、この二人の他、マイケルとジョンの擬似親子関係や実のルーニー親子など、さまざまな男同士の関係が描かれる。殺伐としたシーンの多い作品だが、マフィアの世界を描くと必然的に家族の物語となるのは『ゴッドファーザー』の例を挙げるまでもないだろう（その意味では以前ご紹介した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は家族の影がほとんど現れない例外的作品かも）。監督のサム・メンデスは、前作の『アメリカン・ビューティー』で病める現代アメリカ人家族の物語を皮肉っぽく描いており、そのときほどではないにせよ、血縁関係とその信頼、裏切りといった問題を引続き問いかけているようにも見える。</p>
<p>この映画の見どころは、まず男優たちのそれぞれの演技合戦だ。主役の二人はもちろんのこと、コナー役のダニエル・クレイグ（００７の新作公開も楽しみ）や、殺し屋のジュード・ロウも必見。特にロウの異様なメイク顔は強烈だ。次にこちらも亡くなった名撮影監督コンラッド・L・ホールによるカメラワークがすばらしい。アカデミー賞ではＰ.ニューマンの助演男優賞を含めた６部門のノミネートだったが、受賞したのは撮影賞だけ。その栄誉にふさわしい映像で、雨のシーンではその飛沫がこちらにかかってくるかのような臨場感と光の加減に感嘆する。ハイビジョン映像で観るのが最も楽しみな作品のひとつである。</p>
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<pubDate>Wed, 17 Dec 2008 10:40:57 +0900</pubDate>
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<title>ペイルライダー</title>
<description><![CDATA[<p>クリント・イーストウッドは西部劇スターとして世に出たわけだが、自身の監督作品として最も名高いのは、アカデミー賞作品でもある『許されざる者』（92年）であることは衆目の一致するところ。彼が「最後の西部劇」として作り上げたこの作品は確かに大変よくできた傑作であることは疑いの余地はない。しかしながら、同じジャンルに限定すると、より映画的な興味を喚起し、個人的に静かな興奮を覚えるのは『ペイルライダー』の方である。85年の秋に公開された時に、久しぶりに知名度のあるスターが出演する西部劇作品が劇場公開されるということで配給会社も大いに力を入れ、テレビの深夜番組でも「西部劇復活！」といった特集が放送されたりしたことを記憶している。まあイーストウッドの監督作品ということで、単純な痛快アクション映画になっているはずはなく、残念ながら一般的な西部劇復活の狼煙となるほどのヒットはしなかったようである。</p>
<p>舞台はカリフォルニア北部と思われる峡谷。小さな村落では川から時折採取される黄金を頼りにささやかな生活が営まれていたが、鉱山会社を経営するラフッド一家によって乗っ取られようとしていた。だがある時、救世主のごとく青白い馬に乗った（タイトルの由来）一人の流れ者が現われる。なんと牧師の装いだったことから、プリーチャーと呼ばれることになるのだが、一方ラフッド社は立ち退き工作が失敗し、業を煮やして保安官たちを使って攻勢に出る。いよいよ町中でプリーチャー一人と保安官たちとの最後の決戦が始まるのだが…。</p>
<p>公開当時によく引き合いに出されたのが、おなじみの名作『シェーン』で、確かに基本的な物語構造はよく似ている。しかしイーストウッド作品を注意深く観続けてきたファンは、これが彼の監督第２作目『荒野のストレンジャー』（72年）の、ほとんどリメイクと言えるような性格の作品であることをすぐに察知したことだろう。なんだかよくわからない西部劇として（？）ほとんど話題にならなかった『ストレンジャー』を中学生の時に劇場で観たことは私のささやかな自慢なのだが、どちらの作品も主人公の素性がまったく不明、という不可解さゆえに物語が神話性を帯びている。しかも本作の方は謎のガンマンが牧師という設定で、聖書の一節にしばしば言及されるなど、宗教的な匂いも加味され、より独特のムードを醸し出しているのが魅力。牧師と保安官との過去の因縁をほのめかすような描写やセリフもあるのだが、どれも本当にほのめかされるだけで、最後まで説明はなされない。分かりやすい勧善懲悪の西部劇を期待した人はきっと肩すかしを食らったことだろう。</p>
<p>先ほど「映画的な興味を喚起し」と書いたが、それが実感できるのは、まず撮影の素晴らしさだ。名撮影監督ブルース・サーティースとの最後の共同作業となった本作だが、得意の逆光を多用した人物や風景の描写、ただの黒ではなく漆黒とも言える凄みのある暗部の扱いなどは惚れぼれするほど。次に考え抜かれた人物の動き。画面をゆっくり横切るイーストウッドの歩く姿だけで芸術的だ。最後に音。牧師やラフッド一味が歩くときの靴音、拍車のかすかな振動音、銃に弾丸を装着する時の金属音、渓谷を疾走する馬の群れが発する地鳴りのような重低音。贔屓目に捉えているのはご容赦願うとして、こういった細部に宿った神の存在に言いようのない充足感を得られるのは、これが良質の映画であることの証左と思う。鑑賞時は部屋をやや暗くし、音量は心持ち大きめをお勧めしたい</p>

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<pubDate>Mon, 10 Nov 2008 11:03:40 +0900</pubDate>
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<title>ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ</title>
<description><![CDATA[<p> 今から30年以上前、1970年代のテレビ洋画劇場黄金時代に映画の洗礼を受けた青少年たちにとって、イタリア人監督セルジオ・レオーネの名前はまさしく多感な青春時代の象徴であり、世界最高の映画監督と評価されていた（と言えるのは私とその周辺の映画好き連中だけだったかもしれないが）。クリント・イーストウッドを『荒野の用心棒』でスターに導き、続く『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン／地獄の決斗』と併せた”ドル３部作”でマカロニ・ウエスタンのスタンダードを確立。『ウエスタン』（原題は”Once 
  Upon a Time In the West”）ではアメリカの良心ヘンリー・フォンダに極悪無情の悪役を演じさせ、『夕陽のギャングたち』では男の友情物語を西部劇の枠を超えた感動的なノスタルジーに昇華させた。脚本、セット、小道具、撮影の構図、編集など、映画づくりのすべてに亘り妥協を許さず、その結果制作費と上映時間が膨らみ続けるというメタボ体質のため（実際体型も巨大）、61年から71年までの10年間に監督作品として製作出来たのは、デビュー作『ロード島の要塞』を含めて上述の６本のみ。</p>
<p>原題がそのままカタカナ邦題になって公開当時驚いた本作品は、『夕陽のギャングたち』以来13年の沈黙を破って完成された超大作だ。劇場公開時の上映時間は3時間25分で、その後ビデオで3時間47分の完全版もリリースされた。現在各種ソフトで観られるのは完全版の方だけで、今回の放映も同じだ。もちろん私がリアルタイムで観ることができた唯一のレオーネ作品ということで、思い入れも半端ではない。西部劇でないにもかかわらず、全編レオーネ・タッチ全開というアクの強い演出スタイルで大満足。上映館が変わるたびに追っかけて、結局５回くらいは観ているはずだ。</p>
<p>お話の方は、1930年代のユダヤ系ギャング仲間、ヌードルスとマックスの少年期、青年期から晩年に至るまでの友情と裏切りの物語で、三つの時制がほどんど同時進行のように絡み合い、ミステリーのように謎を残しながらゆっくりと展開していく。この独特の複雑な構成が、ハマる人にはとことん気持ちよく、合わない人はイライラしっぱなしだろう。カンヌ映画祭でも大好評だったようだが、アメリカで公開されたときは、レオーネの許可なく年代順に再編集されるという信じがたい事態となり、オリジナルの良さが全く損なわれてしまい、興行的に惨敗だったと聞く。これだからアメリカってところは・・・。</p>
<p>ヌードルス役がロバート・デニーロと知った時に、これは傑作になると確信したが、青年から老年まで巧みなメイクで演じきり、存在感は抜群。身のこなし、顔の表情などすべてが印象的と言っても大袈裟ではない。ラストの表情なんて、その夜の夢に出てきそうなくらい忘れ難い。しかしながら声を大にして申し上げたいのは、もう一人の男、マックスを演じたジェームズ・ウッズの素晴らしさだ。デニーロと比べると知名度では相当劣るが、シャープな顔つきで内に狂気を秘めたこの難しい役を完璧に演じ、この映画の成功にもっとも貢献しているのは彼ではないかと思わせるものがある。貢献といえば、忘れられないのはレオーネ作品になくてなならないエンニオ・モリコーネの音楽の、これまた素晴らしいこと。久々の名コンビ復活ということで、モリコーネも相当に力が入っていることが伝わってくる。８０年代モリコーネ作品の最高作とすることにいささかの躊躇もない。少し涼しくなった初秋の夜にでも、この長編作品をじっくりご鑑賞いただきたい。</p>
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<pubDate>Tue, 09 Sep 2008 15:45:11 +0900</pubDate>
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<title>ゾンビ【米国劇場公開版】</title>
<description><![CDATA[<p> 私は今でこそホラー映画を好んで観る方ではないが、別に苦手でもなんでもなく、昔は劇場でのオールナイトのホラー映画特集なんかも友人を誘って楽しんだものだ。そんな中で巡り会ったのが78年製作の『ゾンビ』。現在では「ホラー映画の古典的名作」などど称されているが、そんな褒め方など陳腐にしか感じられない、奇跡的傑作であることは、まだ20代前半の私でもすぐに理解できた。ホラー・ファンから神と崇められるジョージ・A・ロメロ監督による『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に次ぐ“リビング・デッド”プロジェクト第2弾（原題は「ドーン・オブ・ザ・デッド」）で、この後『死霊のえじき』（原題「デイ・オブ・ザ・デッド」）へと続く。</p>
<p>細かい説明もなく、いきなりゾンビが増え続けて人間を襲う世の中になっている。すばらしい導入部だ。地獄のような都市からの脱出を試みるSWAT隊員たちとその仲間。ようやくたどり着いた郊外の巨大なショッピングセンターで得た束の間の平和だったが、乱入して来た暴走族によって再び地獄の日々が訪れる。大筋はこれだけ。しかし閉じられた空間で繰り広げられる、人間対ゾンビ、そして人間同士の戦いの連続は、全く飽きることなく画面に釘付けにしてくれる。マイナー・カンパニーによる低予算映画だけに、今の水準で比較すると特殊技術のレベルはそう高くないが、特殊メイクの名人トム・サヴィーニの仕事は、当時としては画期的なものだったはずだ。スプラッター的表現は思ったほど多くなく、「それだけ」を売りにするホラーとは一線を画していると考えていい。むしろ近未来サバイバル・アクションという位置付けの方がわかり易いかもする。</p>
<p>この映画の特徴は、まず舞台がショッピングセンターであるため、非常に明るい空間で展開するということだ。普通は恐怖を全面に出すには、暗い場所を舞台にするというのが基本だが（大抵この手の映画では、殺人は夜中に起こる）、ここでは恐怖は基本的にすべて目に見えている。それに加え、店の中では常に能天気に明るいBGMも流れていて（このBGMが映画が終わってもずーっと耳に残って離れてくれない）、悲惨な戦い場面もすべて背景は普通の日常と同じだ。こういう世界観が独特のテイストを生み出しているのだろう。つまりゾンビの恐怖そのものよりも、極限の状況に置かれた人間の生態を映し出すことに主眼があると言える。今年観た作品では『ミスト』と設定やテーマがよく似ている。あちらも正体不明のモンスターのお陰でスーパーマーケットから外に出られなくなる話だった。</p>
<p>この映画がホラーという括りでなく、ドラマとして成立しているのは、作者の社会批判が明確であるためだ。批判されているのは大量消費社会で、舞台が何でも手に入るショッピングセンターであることがミソ。ゾンビは人間だったときの習性で、ノソノソと店に集まってくる。彼らは正体不明のモンスターではなく元人間である。ここで描かれるのは人間の飽くなき欲望であって、それは映画を観ている私たちに痛烈に投げかけられたものだ。ロメロ監督お見事。でもショットガンでゾンビの顔が吹き飛んだり、ゾンビが人間の××を○○する場面もあるので、どうしてもそういう場面が嫌な方は、残念だがこの名作をお薦めすることが出来ないかもしれない。ああ、本当に残念だ。</p>
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<pubDate>Mon, 11 Aug 2008 10:15:37 +0900</pubDate>
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<title>亀も空を飛ぶ</title>
<description><![CDATA[<p>
『酔っぱらった馬の時間』（2000）で一躍注目を浴びた、イランのバフマン・ゴバディ監督の長編第3作。イラク北部の地域で監督の出身地でもあるクルディスタンを舞台に、アメリカのイラク侵攻とフセイン政権の崩壊という激動の時代を生きる人々を、子供たちの物語として描写した秀作だ。荒涼とした土地に部落のように居住する住民と、難民が共に生活をする地域はイラン、トルコと国境を接し、政情不安になればたちまち外国からの侵略を受けそうな雰囲気がリアルに伝わってくる。まさしくそういった状況で果敢に撮影を敢行した監督とスタッフの意志が画面に漲っているのが素晴らしい。それだけでなく、冒頭の崖に立つ少女のシーンを始めとして、随所に幻想的なショットを挟み込んで、リアリティ一辺倒でない画の作り方をしているのが特徴だ。
</p>
<p>2003年の春、クルディスタンの小さな村にサテライトと呼ばれる少年がいた。彼はなぜか生活のための知識が豊富で、テレビ放送を村人が見るためのアンテナ調整を仕切っている。戦争の情報を知りたいという老人たちのために、衛星放送のパラボラアンテナを設置し、モスクで実況できるような環境まで整えてしまう。また、子供たちを完全に掌握して、地雷原から地雷を撤去し、それを国連関連の組織に売っては武器に変えていた。学校まで武装してしまうが、反対する先生すら、やたらと弁の立つサテライトに言いくるめられ、諦めてしまうほどだった。ある日目の不自由な幼い子供を背負った難民の少女アグリンに一目ぼれしたサテライトは、何かと彼女の世話を焼く。彼女には地雷で両腕を失った兄がいたが、彼は不思議な予知能力があり、最初は敵対していたサテライトも、やがて彼に興味を持ち、彼らの悲惨な人生に関わっていくことになる。</p>
<p>戦争が起こると真っ先に影響を受ける土地でありながら、ニュースを見なければそれを知ることができないという導入部分がとても効果的だ。しかも衛星放送の設備を準備し、最初にチャンネルを合わせると、のどかなリゾート観光地のシーンが流れるという皮肉っぽさもいい。サテライトが子供たちのリーダーとして小銭稼ぎをてきぱきと指示する姿が実に小気味よく、子どもたちは素直に従うのだが、反感を持つ子も中にはいるだろうに、とサラリーマンとしては物語と直接関係のない感想を持ったりもした。</p>
<p>登場する人物はすべて現地の素人ばかりというのも実にリアル。五体満足なでない子供も珍しくなく、平和ボケした日本人から見ると想像を絶する生活だ。子どもたちの飾り気のない、感情をダイレクトにぶつける表情と声のなんと雄弁なことか。しかも彼らはそこで普通に生活を営んでいる様子を演じているようで、人物の造形に的確な演技をしている。監督の演技指導、演出力が卓抜なものであることがわかる。特に少女アグリンの目の力は非常に印象的で、苦労して探し出したというアワズ・ラティフという女の子の貢献度はかなり大きい。子供たちの描写には随所にユーモアをまぶしてなかなか面白いのだが、この兄妹と幼子の関係も後半に明らかになり、独裁政権崩壊前後の激動の時期に起きた悲劇に最後は観る者は言葉を失うだろう。為政者が戦争を始め、子どもたちが傷だらけになる。いつの時代も同じ悲劇が繰り返されることを改めて教えられる、静かで力強い作品だ。</p>
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<pubDate>Mon, 14 Jul 2008 11:23:38 +0900</pubDate>
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<title>キング・コング（2005年版）</title>
<description><![CDATA[<p>『ロード・オブ・ザ・リング』3部作で大成功を収めたピーター・ジャクソン監督が、そのご褒美（？）に長年の念願だった企画を実現できたのが、33年製作の古典『キング・コング』のリメイクだった。自身がもっとも愛する作品を、映画史上でも例のない破格の製作費を掛け、『リング』シリーズよりさらに進化したＣＧテクノロジーを駆使して作り直す作業は、彼にとって至福の時間だったに違いない。その結果上映時間208分という、これまた想像を絶する長編となって完成した。ストーリーは誰もが知っている巨大ゴリラと美女との悲恋物語であり、オリジナルに心から敬意を払って変な脚色はなし。エピソードは増えているものの、骨格そのものは全く旧作に忠実な再映画化と言っていい。日本で公開されたのは2006年の正月映画としてだったが、最初私は今ごろなぜキング・コング？と、その企画自体の意味がよくわからなったこともあって、劇場公開を見逃してしまった。今ＴＶで観ると、やっぱり劇場に足を運んでおくべきだったと後悔しきりだ。もし可能なら、家庭でも大型ＴＶモニターとサラウンド音響で楽しみたい。</p>
<p>この作品は76年にもリメイクされていて、この時も機械仕掛けの巨大コングが話題になったりしたが（こちらも今月オンエアされるので、比較して楽しむことができる）、今回のコングの造形・動作に関しては全く次元の違う精巧さに驚かされる。舞台となる髑髏島（スカル・アイランド）のジャングルやニューヨークのビル群の間を自在に飛び跳ね、障害物をなぎ倒すときの躍動感、顔（特に目）の動きで感情を表現する豊かな「演技」。言葉を持たない主人公が、堂々たる主演男優として機能しているといるのを見ると、この時代にリメイクする理由がわかるような気がしてくる。一人の女性と心を通じ合わせ、彼女を救うために体を張って敵に立ち向かう勇ましさ。そして彼女を見つめるときの哀しさを湛えた表情。大きな体で男の強さと優しさを見事に演じているコングこそ最大の見どころだろう。</p>
<p>人間はすべて脇役扱いといっても過言ではないのだが、演じる役者が上手いため、物語にずいぶん豊かさが加わったように思える。相手役（女優の設定）のナオミ・ワッツ、脚本家役のエイドリアン・ブロディもさることながら、いい味を出しているのがジャック・ブラックだ。『スクール・オブ・ロック』や『ナッチョ・リブレ』でコミカルな演技が持ち味だったが、ここでは取り憑かれたように撮影に命を懸ける映画監督役を演じている。この作品が異常に長くなったのは、前半に髑髏島で恐竜や巨大昆虫との壮絶なバトルが展開されるだけでなく、島に到着するまでの人物のエピソードやドラマが丁寧すぎるほど描かれているためだ。だがそこでのジャック・ブラックが決してオーヴァー・アクトにならずに狂信的な人物像を作っているのが、全体を通じての牽引力となっている、というのは褒めすぎだろうか。</p>
<p>とにかくこの映画はアクションとドラマが上手く融合していて、文句なしに面白い。島での恐竜との戦いは圧倒的な迫力だし、ニューヨークに舞台を移しての人間との戦いもとても良くできている。そしてラヴ・ストーリーとして最後に感情移入させる術も巧みなもの。鑑賞後の満腹感は自信をもって保証する。</p>
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<pubDate>Mon, 09 Jun 2008 15:32:50 +0900</pubDate>
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<title>オール・ザット・ジャズ</title>
<description><![CDATA[<p>先月フェリーニ監督の『8　1/2』をご紹介したあと、今月の放映作品を眺めていたら、なんとこの作品のミュージカル版（？）かと公開当時（80年）話題になった『オール・ザット・ジャズ』を見つけた。別の局での放映なので、まったくの偶然なんだろうが、これも何かの縁ということで、取り上げることにした。と言っても、カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作品（黒澤明監督の『影武者』と共に）で、アカデミー賞でも9部門のノミネートで4部門受賞という堂々たる名作だけに、ご覧になった方も多いに違いない。</p>
<p>この作品は、ボブ・フォッシー監督の自伝的内容の映画化である。自身ダンサー出身で、振付や舞台演出で名声を得たフォッシーという人は、頽廃的な雰囲気の異色作『キャバレー』でアカデミー監督賞を受賞し、その後非ミュージカルの『レニー・ブルース』でも高い評価を得た。フェリーニ版と同じく、創作活動に関わる人物がその過程でいかに苦悩と喜び、挫折と達成感が交錯するかが描かれる。ここでの主人公（つまりフォッシーの分身）ジョー・ギデオン（ロイ・シャイダー）が手がけるのはブロードウェイのミュージカル・ステージで、映画はジョージ・ベンソンの「On 
  Broadway」に乗って、100人規模のオーディション風景からスタートする。台詞がほとんどないまま、鮮やかな群舞とソロ・パフォーマンスを交え、次々とメンバーが選ばれていくシーンの鮮やかなこと。四六時中くわえ煙草の主人公は、才能はあるが、天才肌にありがちな不摂生な生活。酒、薬、女、すべてに対して依存症とも言えるような状態で、それ以上に仕事中毒でもある。ステージ演出と並行して手がける映画の編集作業（明らかに『レニー・ブルース』）では、製作者から予算と期間の大幅な超過を非難されるが、それでも手を加えれば加えるほど内容が良くなっていくのだからやっかいだ。</p>
<p>印象的なシーンがある。彼の小学生くらいの娘もダンサーを目指している。愛人とその娘が、父親に内緒で練習したとてもかわいい振付のダンスを自宅で披露し、それを目を細めて見つめるギデオン。仕事に熱中するあまりまともに構ってやれないことがあっても、子供に対する思いはよき父親のそれであることを映し出している。こういった人物描写が作品に幅を持たせているのだろう。後半は彼が心臓発作を起こして手術を受け、ベッドの中で幻想のステージに立つ。客席にいるのはこれまで自分と関係があったすべての人々、そして若き日の自分だ。まさしく『8　
  1／2』のラストを彷彿とさせる展開。こちらはシェイクスピアのように「人生はステージだ」と喝破していうように見える。劇中を通して彼の幻想の中に現れるのは、白い衣装で優しく微笑む美女（ジェシカ・ラング）。彼が唯一本心を吐露できる相手であるようだ。天使のように清らかな外見だが、破滅に導く死神のような存在に見えなくもない。そして最後には・・・</p>
<p>一人の演出家の人生を描くだけでなく、ブロードウェイという華やかな世界の舞台裏をたっぷり覗けるという楽しみもまたこの作品の見どころだ。心臓発作の手術シーンと公演延期の金勘定のシーンをだぶらせるなんて、悪趣味一歩手前ではあるが。フォッシー監督は87年にベンチで妻と腰かけているときに、「気分が悪い」とつぶやいて息を引き取ったという。その時彼の脳裏にはどういったステージが展開されていたのだろうか。また、ギデオン役のシャイダーも今年に入って世を去った。70年代を代表する映画人たちがまた次々に舞台裏に消えていくようで寂しい。</p>
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<link>http://www.jcomfukuoka.com/movie/remo/archives/2008/05/post_27.html</link>
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<pubDate>Mon, 12 May 2008 16:55:58 +0900</pubDate>
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<title>8 1/2</title>
<description><![CDATA[<p>「8 1/2」とは不思議なタイトルだ。今だと「はちと にぶんのいち」、私の世代だと「はちか にぶんのいち」と読んでいたが、本作が公開された65年ころだと、たぶん「はっか にぶんのいち」と読んでいたはずだ。だからこれが正式な読み方となるのだろう。イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの8.5本目の監督作品ということで、こんなタイトルになったというのが通説だ。（0.5はオムニバス映画だったため。）何とも奇を衒ったネーミングだが、中身の方もこれがフェリーニ映画でなくてなんであろうという、超個性的な内容だ。</p>
<p>映画監督のグイドは新作映画の構想がまとまらずに焦りの日々を過ごす。ある日、自分の体が空中を落下する夢を見る。現実生活の日常での精神的・肉体的な疲れを癒すため、彼は療養と称して温泉に出掛けるが、そこでも仕事や生活から逃れることが出来ない。ますます追い詰められていく彼は、少年時代の記憶や憧れの女性が幻覚のように現れるなど、次第に現実と空想が入り乱れ、ついには新作発表の席ですべてを投げ出して逃亡してしまう。その途端に開放されたように自由を感じ、これまで関わったすべての人々と輪になって手を取り合った。</p>
<p>『甘い生活』（59年）などで、普通のストーリー展開に依存しない、エピソードの並列的構造で独自の映画話術を編み出したフェリーニ。監督自身の心情をそのまま映像化したとしか思えない自伝的な作品であり、その描き方も、大胆にして細心。現実と幻想、現在と過去の間を縦横無尽に駆け巡る。プライベート・フィルムのような作品ながら、それでいて出来上がったものは圧倒的な面白さ。最初に劇場でこれを観たときの衝撃と感動は言葉で表現できないと思った。そう、この作品こそ映画という表現方法以外では全く再現不可能だと確信したのだ。「人生は祭りだ。いっしょに生きよう。」何気ないこのセリフとラストシーンにどれだけ心を動かされたことか。（我が家の玄関には今でもこの作品のポストカードがフレームに入って鎮座しているくらいだ。）それとニーノ・ロータのサーカス音楽（？）の絶大な効果も見逃せない。映像と音楽がこれほど幸福な出会いを記録した映画も稀である。</p>
<p>フェリーニ作品に欠かせない名優マルチェロ・マストロヤンニが、監督の分身としてコミカルに動き回る。彼を取り巻く男たちはみな怪しげ。女たちも彼を惑わすが（フェリーニ映画の常として太った女性が多い）、唯一理想の女性としてクラウディア・カルディナーレだけが癒しを与えてくれる。彼女の登場シーンだけは明るく空気が澄み切ったような演出で、カルディナーレ・ファンの私も一緒に癒されるのであった。とにかく全映画ファン必見の大傑作であることは間違いない。</p>
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<pubDate>Wed, 16 Apr 2008 09:45:35 +0900</pubDate>
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<title>ジュリア</title>
<description><![CDATA[<p>今年のアカデミー賞授賞式は、第80回の節目であること以外は特に目玉になるような話題もなく、中継を見ても、例年に比べると地味な印象を受けた。そんな中で印象に残ったのは、外国語映画賞を受賞したオーストリア映画（ドイツとの合作）『ヒトラーの贋札』の受賞スピーチで、関係者（監督だった？）が、オーストリア出身の監督としてビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン、オットー・プレミンジャーの名を挙げ、その偉業を称えていた。凄い顔ぶれだなあと、改めて感心した次第だったが、オーストリアに限らず、また映画に限らず、二つの大戦による政情の混乱でヨーロッパから海を渡った芸術家たちが、アメリカの芸術、文化の発展に及ぼした影響は計り知れない。アメリカ独自の文化も彼らの作風に変化をもたらしつつ、豊穣なアメリカ文化の基盤を形成したのは紛れもない彼らの功績だ。</p>
<p>その中の一人である、フレッド・ジンネマン監督が77年に製作した渾身の作品『ジュリア』。公開当時は『結婚しない女』、『愛と喝采の日々』などと絡めて「女性映画ブームを象徴する作品」などど話題になったことを記憶している。アカデミー賞関連で言えば、助演女優賞と助演男優賞をヴァネッサ・レッドグレーヴ（ジュリア役）、ジェイソン・ロバーズ（ダシール・ハメット役）がそれぞれ受賞。また脚色賞（アルヴィン・サージェント）でも栄誉に輝いた。ハリウッド映画の原作となった作品をいくつも生み出した女性作家リリアン・ヘルマンの自伝を映画化したもので、リリアンと友人のジュリアとの友情と過酷な運命が描かれている。リリアン役のジェーン・フォンダは、感情の起伏が激しくも、友人のことを心から信頼する作家を熱演しており、彼女がアカデミー主演女優賞を取れなかったのは残念だし、ちょっと不思議だ（ゴールデン・グローブ賞は受賞）。映画の前半、スランプで筆が進まないリリアンと、作品の出来には厳しくも、温かく支える同棲相手のハメットとの交流場面は、静かで味わい深い。</p>
<p>「女性映画」などと勝手にカテゴライズされるとイメージが掴みにくくなるが、二人の女性の友情を描きながら、第二次大戦前の緊張と不安が入り乱れる時代を鋭くかつ重厚に描写しているところは、さすがジンネマン監督と唸らされる。現在から過去へと何度も時空を飛び、幼き日のエピソードを丁寧に織り込んで、人物の行動を巧妙に意味づけている。こういうスタイルは個人的には好きだ。ケンブリッジ大学の優秀な学生だったジュリアが次第に政治運動に熱を入れるようになり、ついには暴漢に襲われ重症を負う。このあたりから映画は急激に緊張感を持ち始める。しばらく行方が分からなかったジュリアから、見知らぬ男を通してある依頼を受け、リリアンは列車でベルリンを経てモスクワへ向かう。この移動シークエンスのサスペンス感は一級品。娯楽映画としての面白さを過不足なく加味して、二人の女性の人生を活写する。助演の二人の存在感も素晴らしい。ちょっと面白いと思ったのが、女性のアップを取るときに、往年のハリウッド映画のようなソフト・フォーカスになるところ。古めかしさがあるが、時代感を出すための意図的な手法だろうか。決して心地よい時代が舞台ではないのに、この作品はアメリカよりヨーロッパでヒットしたとのこと。ヨーロッパ人監督の真摯な映画作りが、苦しい時代の記憶を持つ多くの人々に評価されたことを喜びたい。</p>
<p>おまけの話題をひとつ。この作品はかのメリル・ストリープの映画デビュー作でもある。フォンダ扮するリリアンに少々嫌味な言葉を投げかける若い友人役を演じていた。さすがに後年の大女優ぶりを窺わせる圧倒的な貫禄で・・・と言いたいところだが、出番も少なく、そこまで言い切るのは自信がない。ただ、フォンダは彼女の演技を見て「この娘は出世するわよ」とつぶやいたそうだ。その予言どおり、2年後に『クレイマー・クレイマー』でアカデミー助演女優賞を獲得した。</p>


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<pubDate>Wed, 12 Mar 2008 11:29:02 +0900</pubDate>
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<title>未知との遭遇　ファイナル・カット版</title>
<description><![CDATA[今年中に『インディ・ジョーンズ／クリスタル・スカルの王国』が公開予定の、スティーヴン・スピルバーグ監督の代表作のひとつである『未知との遭遇』。当時の興行記録を塗り替えた大ヒット作『ＪＡＷＳ　
ジョーズ』に続く大作として、78年に公開されている。ユニヴァーサルやパラマウントが多いスピルバーグ作品にしては珍しく、コロムビア映画が製作した。彼はこの作品には相当なこだわりを持っていることは明白で、最初の公開版からほどなくして新たなカットを追加（一部削除）して「特別編」を製作、長くその版が定番となっていたが、98年にDVD化のためにまた編集をしなおした「ファイナル・カット版」を世に送り、いまではこれがスタンダードになっている。今回の放送はそのヴァージョンである。（DVDやブルーレイ・ディスクではすべてのヴァージョンが収録されたものもある。いい時代になったものだ。）
<p>内容はといえば、原題の&quot;Close Encounters Of the Third Kind&quot;（第三種接近遭遇）が示すとおり、人類が初めて異星人と遭遇する出来事を描いたもので、身も蓋もなく言ってしまえば、ただそれだけの映画である。『E.T.』のように地球に降り立った異星人と子供が出会って騒動を巻き起こすわけでもなく、ましてや『宇宙戦争』のような生存をかけたガチンコのバトルを展開するわけでもない。UFOの出現に驚き、次第にそれに取り付かれ、家族と決別してまでも「あちらの世界」と接触しようとする普通の男を描いたものだ。その男を演じるのがリチャード・ドレイファス。前作『ＪＡＷＳ　
  ジョーズ』に続いて主演となった彼は、その風貌やキャラクターから、スピルバーグの分身のような人物を演じている。テレビで『十戒』を観たがる子供に無表情なまま「五戒までならいい」とつぶやく一方、『ピノキオ』を観ようと大はしゃぎして逆にあきれられたり、大人の形をした子供という役がぴったりハマっている。</p>
<p>それ以上に成功したキャスティングは、政府の異星人接触プロジェクトのリーダー的存在となる科学者にフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーを起用したことだ。スピルバーグの映画人としての原点ともいえる『大人は判ってくれない』などの映像作家は、役者として「演じること」を巧みに回避しながらも（プロの役者じゃないのだから当然だが）、学校教育のはみ出し者だったという二人の共通点を考えると、これまたスピルバーグの分身として役を与えられたように思えてならない。そう、これはストーリー、キャスティング、表現方法などを含めて徹底したスピルバーグのプライベート・フィルムのような作品で、それゆえに編集を繰り返して永遠の未完成作品として位置しているのだと思う。UFOとのコンタクトに音楽を媒介としているところも彼らしいセンスだ。ラスト20分の遭遇シーンの光り輝く絢爛たる映像も当時話題になったものだ。</p>
<p>エンディング・クレジットではジョン・ウィリアムズの音楽が流れるが、そのなかでさりげなく「星に願いを」のメロディが挿入される。これこそディズニー映画『ピノキオ』の有名な挿入歌だ。こんなところまでこだわり抜いたスピルバーグの想い。今見直すと結構ヌルいところも多いのだが、この作品を愛する人が多いのは、他の作品にない監督自身の特別な思い入れが感じられるからに他ならない。最近の大人向けになった作品群もいいが、まだ子供の匂いがする初期作品も改めて見直したくなる、そんな映画である。<br>
  なお、この作品とその製作背景については、町山智浩氏の「映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで」（洋泉社刊）に詳しくある。興味のある方はぜひお読みいただきたい。<br>
</p>

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<pubDate>Fri, 15 Feb 2008 10:08:37 +0900</pubDate>
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<title>ゆれる</title>
<description><![CDATA[<p>少しばかり遅くなりましたが、新年おめでとうございます。2008年も当コラムではJ:COMで放映される作品から毎月1作品を選んでご紹介しますので、どうぞよろしくお願いします。</p>
<p>さて、今年最初に取り上げる作品として、珍しく日本映画を選んでみた。ここ何年かは劇場へ行くよりもJ:COMで映画を楽しむ機会が断然多いのだが、振り返るとこのところ外国映画よりも日本映画を好んで観ることが多くなっている。以前は日本の映画と言えば黒澤明監督作品か『ゴジラ』などの特撮物くらいしか観ていなかったため、当コラムでも過去ほとんどすべて外国映画しかご紹介してこなかった。でも最近は日本の新しい世代の監督だけでなく、彼らの少し前の世代の監督たちも続々と優れた作品を送り出していて、追いかけるだけも大変な状況だ。興行成績も好調のようだが、質的にも充実していることは何より喜ばしい。この正月の間も『下妻物語』、『NANA』、『あずみ』２部作など見逃していた人気作品をたっぷり堪能できた（年末年始は映画放映数が半端じゃないので・・・）。一昨年公開のこの『ゆれる』は前作『蛇イチゴ』（私は未見）で注目を集めた新鋭・西川美和監督が、オダギリジョーと香川照之という実力派俳優を迎えて作り上げたミステリー・タッチの人間ドラマだ。対照的な人生を歩む兄弟に起こるある出来事を通して、愛憎と心理的葛藤がただならぬ緊張感を漂わせながら描かれる。</p>
<p>東京で写真家として成功し、交友関係を含め自由奔放に生きる弟・猛（タケル）（オダギリ）。母の葬式にも顔を出さなかった彼は、その一周忌に久々に山梨の実家に帰り、そこで父と共にガソリンスタンドを経営する兄・稔（香川）と再会する。猛は頑固な父とは関係がややギクシャクしていたが、温厚な稔が仲裁に入り何とか取り成した。翌日、兄弟はガソリンスタンドで働く幼なじみの智恵子（真木よう子）と3人で近くの渓谷に足を延ばす。ところが、川に架かる細い吊り橋で、智恵子が渓流へと落下してしまう。そして、橋の上には一人呆然とする稔の姿があった。橋の下にいた猛は動揺する稔のもとに駆け寄り落ち着かせる。兄弟の証言から、最初は転落事故として扱われていたが、数日後、稔が突然「自分が突き落とした」と自供したことから、事件の真相を巡って裁判へともつれ込む。猛は弁護士の伯父の協力を得て、稔の無実を証明しようと試みるが・・・。</p>
<p>このところの日本映画の特徴は、マンガや小説（ケータイ小説なるものも含めて）などの原作物の映画化が多いということだろう。それ自体は必ずしも悪いことではないが、どうしても原作をどう脚色するか、テイストなどを比較してどうかということが話題になり、特に原作に熱狂的なファンがいる場合（大抵そうだろうが）、冷静な評価が下しにくくなりがちだし、安易な映画化という先入観を持たれる場合もあるだろう。この『ゆれる』は、2年の歳月をかけたという西川監督自身によるオリジナル脚本が素晴らしく、それだけでも価値が高いように思うが、それを完璧なまでに映像化した監督自身の演出家としての力量こそ最も賞賛に値する。大人になるにつれて生きる境遇が大きく変わっていった兄弟の心理を中心にした前半、事故か殺人か、当事者である兄弟の証言によって語られる真相がほとんど最後まで藪の中にあるような後半、そのいずれも非常に繊細で惹きつけられる語り口だ。特に裁判が絡んで来る後半のクライマックス、拘置所でのガラス窓を挟んだ二人の会話は、主演の二人の個性と演技力が相俟って画面に釘付けになる。ラストの切り方もこれ以上ないというくらいのタイミングで、いつまでも心に残る。</p>
<p>描き出される映像の一つ一つが意味を持ち、無駄なショットなど一瞬も紛れ込んでいない。全体に過剰な表現や演技は慎重に排除されているが、兄弟がそれぞれ激高する場面も二人の性格描写に繋げるためか、微妙にカメラワークなどを変えて撮られているように思われる。それだけ丁寧に撮られた作品であるということだろう。感性と勢いがすべてというような作品もたまには楽しいが、これが30代の若い女性監督による第二作目とはにわかには信じがたい成熟ぶり。男兄弟の心理的葛藤をこんなに違和感なく表現できるなんてすごいことではないだろうか。私自身が男二人兄弟なので、とりわけ凄さを実感し易いのかもしれないが・・・。見終わって何日も尾を引くような類の映画なので、出来れば何度も繰り返しご覧になることをお勧めしたい。</p>
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<link>http://www.jcomfukuoka.com/movie/remo/archives/2008/01/post_11.html</link>
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<pubDate>Mon, 07 Jan 2008 16:59:13 +0900</pubDate>
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<title>戦場のアリア</title>
<description><![CDATA[<p>ムービープラスの作品紹介には、「フランス・スコットランド連合軍とドイツ軍が対峙する最前線で、敵対する兵士どうしが束の間の温かな交流を持つさまを描く。第一次世界大戦下のクリスマスに起こった出来事を基にした感動のドラマ」と書いてある。数十メートル離れて塹壕を築き、そこに身を潜める両軍。緊迫した状況が続く中、クリスマスの日を迎えたドイツ軍はなぜかたくさんのクリスマス・ツリーを並べ、テノール歌手が壕を出て朗々たる歌声を聞かせる。これにスコットランド軍がバグパイプで応じ、これをきっかけにして一夜の休戦となり、敵・味方が期間限定で交流をする、というお話だ。劇場公開を見逃していた私は、初めにこのあらすじを知ってこれで２時間どうやって引っ張るのかと余計な心配をしてしまった。しかしそれは杞憂に終わる。</p>
<p>この映画、両軍の兵士が心を通わせるクライマックスのシーンが全体のちょうど中ほどに訪れる。ということは、その束の間の安らぎが終わった後に、それぞれの軍の兵士たちがどういった運命をたどるのか、それが鑑賞後のテイストを大きく左右するというわけだ。ほのぼのとした友情の交感の後に休戦状態は終わりとなるが、以前のような攻撃の応酬は出来なくなる。それどころか、味方の攻撃を予告して自軍の壕に敵を匿うという不思議な光景。やがて兵士の手紙が次々と検閲されて、（上層部から見れば）異常な状況が明らかにされていく。スコットランド軍の指揮官はカトリックの神父だが、彼の行為を上位の聖職者は決して認めないどころか、兵士たちに対して「平和のためにドイツ軍を皆殺しにせよ」と説く。現代の状況と照らし合わせてもギョッとするメッセージだ。ネタばらしになるといけないので詳しくは書けないが、こういった苦味がこの作品の持ち味だろう。これまでこのコラムを読んでいただいた方にはお分かりいただけると思うが、私が映画の好き嫌いを嗅ぎ分けるときに最も重要視するのは、こういった苦いテイストの含有率である。だから本作品のような「感動的」なだけで終わらない映画が好きなのだろう。</p>
<p>余計なことかもしれないが、この話は第一次世界大戦を舞台にしている。最初は第二次大戦の話かと思い込んでいたので、国の関係が？であった。いずれにせよ兵士どうしが目視で戦っていた時代でなければ成立しないシチュエーションであり、ピンポイント爆撃の近代戦の時代にはこういった物語は生まれないだろう。戦争映画がクリスマスの特集としてふさわしいかを疑問に思う向きもあるかもしれないが、これこそクリスマスが主役とも言えるストーリーだし、その本質とは何か、を考えさせられるという意味でも見ておいて損のない作品だ。</p>
<p>少々苦言を。映画のポスターを始め、DVDのカヴァーでも大きく描かれているのが、テノール歌手ニコラウス（ベンノ・フユルマン）の妻で、ソプラノ歌手でもあるアナ（ダイアン・クルーガー）であるが、はっきり言ってこのキャラクターは本作には不要であったのではないか。戦場の最前線に起こった奇跡的な出来事に美しい女性が立ち会うのは、トップ歌手の夫婦であるという設定であっても場違いな雰囲気は否めない。むさ苦しい男だけのドラマにして、臨場感を高めた方がよかったのではと思う。</p>
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<link>http://www.jcomfukuoka.com/movie/remo/archives/2007/12/post_10.html</link>
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<category></category>
<pubDate>Tue, 11 Dec 2007 09:54:40 +0900</pubDate>
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<title>愛と悲しみの旅路</title>
<description><![CDATA[<p>90年代初めに出会った一冊の本によって、私は太平洋戦争中の在米日系人が被った苦難の歴史を知ることになった。本のタイトルは「ローン・ハート・マウンテン―強制収容所の日々」（エステル石郷著）。1941年の日本軍による真珠湾攻撃が行われた翌年、米軍司令部が「軍事的必要性」を理由に西海岸在住の全日系人に対し「保護的拘留」を宣言した。この本には、理不尽で差別に満ちた政策の犠牲となって仕事を追われ、絶望と悲しみのうちに土地を離れるか、収容所に隔離された人々の生活の様子が、筆者自身によって描かれた豊富な挿絵とともに綴られていた。作者は実際にカリフォルニアやワイオミングの収容所で夫と共に生活を強いられた人物である。この本を原作として日系人監督のスティーヴン・オカザキが制作した短編ドキュメンタリー映画『収容所の長い日々／日系人と結婚した白人女性』は、90年のアカデミー賞同部門の最優秀賞を受賞し、わが国でも話題を呼んだ。この作品は受賞後間もなく某局でＴＶ放映され、私も幸運にも観ることができた。戦時中に日系移民がこのような過酷な日々を送らなければならなかったことなど全く知らなかったことを恥じることしきりであった。（1988年に賠償補償を求める法案が可決され、90年から約6万人に対して賠償金の支払いが開始された。）</p>
<p>この作品はその短編ドキュメンタリーと同時期に制作された劇映画で、日系二世の女性とアメリカ人青年とのラヴ・ストーリーを軸としながら、その家族の激動の人生をスケール大きく描いた力作だ。当時の日系人社会の風俗や日常生活、広大な土地に再現された収容所の威容などといったプロダクション・デザインが良くできているだけでなく、キャスティングされた実際の日系人俳優が登場人物たちをリアリティ豊かに表現することで、物語に説得力を持たせている。日本の歌謡曲（？）とジャズが風俗描写にどちらも等しく重要な役割を持たされているところなども気が利いている。</p>
<p>ロサンゼルスで日本人向け映画館を営む日系一世、ヒロシ・カワムラの娘リリー（タムリン・トミタ）は映画館で働く元労働活動家のジャック・マクガーン（デニス・クエイド）と恋に落ち、両親の猛反対にもかかわらず結婚した。娘ミニも生まれ幸福な生活を営んでいた２人だったが、ジャックの組合運動絡みでいさかいが起こり、リリーはミニを連れて実家へ戻ってしまう。そこへ降ってわいたような日米開戦、リリーの父はスパイの嫌疑を受けてＦＢＩに連行される。やがて戦火の激しくなる中ジャックは徴兵され、日系人は収容所に強制移住となったため２人は離ればなれに。リリーの２人の兄はそれぞれ日本人とアメリカ人として生きる道を選択し、日本への強制送還と米兵としての戦死という悲劇的な結末を迎える。ジャックは軍を脱走し収容所へ戻るが、やがて逃亡の罪を問われ刑務所送りになってしまう・・・。</p>
<p>イギリス人監督のアラン・パーカーは、数ヶ月前に『ザ・コミットメンツ』を取り上げた際に音楽絡みの話題でご紹介したが、もう一方で彼は非常に優れた脚本家であり、重厚なドラマを巧みに作り上げる才能の持ち主であることも忘れてはならない。さしずめこの作品などは、そういった彼の本格的なストーリー・テラーとしての実力を最高に発揮したものとして記憶されることだろう。彼のフィルモグラフィーからすると、日系人の歴史を描くなど想像できなかっただけに、その着眼点の意外性に感心したものである。しかしながらアメリカはともかく、日本ですら一般的には大きな話題を呼ぶこともなく、興行的には成功したとは言い難かったようだ。原題&quot;COME 
  SEE THE PARADISE&quot;「来たりて楽園を見よ」。なんと格調高いタイトルだろうか。ロシアの女流詩人アークマトバの詩の一行からパーカー監督が書き留めていたものだという。アメリカン・ドリームの希望と絶望を語るものとしてこの作品を手がけたのだが、当時よく使われた手垢のついたような邦題で公開され、題材のユニークさを消されてしまったのがこの作品の不幸だったのかもしれない。<br>
</p>
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<link>http://www.jcomfukuoka.com/movie/remo/archives/2007/11/post_9.html</link>
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<pubDate>Mon, 19 Nov 2007 10:15:10 +0900</pubDate>
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<title>シン・シティ</title>
<description><![CDATA[もうすぐ劇場公開期間が終了しつつあるロバート・ロドリゲス監督の『プラネット・テラー in グラインドハウス』は、いつにもましてＢ級テイスト100％（そもそもそういう企画で製作されたので当然ではあるが）で、しかも強烈に面白いハード・アクション・ゾンビ映画であった。ハリウッドではなく基本的に地元テキサスでの製作にこだわり続け、今や世界屈指の娯楽映画クリエイターとして認知されている。”デスペラード”3部作や『スパイ・キッズ』シリーズなどが代表作だが、『パラサイト』や『フロム・ダスク・ティル・ドーン』も個人的には大好きである（これ、前にも書いた記憶があるな・・・）。製作、脚本、監督、撮影、編集、音楽をすべて担当するスーパーマルチな才能にはいつも驚かされる。これで主演までやったら現代のチャップリンだ・・・というのは冗談として、これほどまでに作品を自分のカラー一色に染め上げなければ気が済まない監督というのも珍しいのではなかろうか。その意味ではこの『シン・シティ』は異色のプロダクションと言える。原作のコミックの作者であるフランク・ミラーを共同監督に迎えて、さらには盟友クエンティン・タランティーノにも特別監督として一部のシーンを監督させているのだ。
<p>本作は特に関連がない３つのエピソードから構成されている（実は登場人物たちは微妙に遭遇しているのだが）。＜1＞――容姿は醜いが屈強な肉体を持つ仮出所中のマーヴ。彼は誰からも愛されることがなかったが、一夜の愛をくれた高級娼婦ゴールディを何者かに殺され、復讐に立ち上がる。＜2＞――罪から逃れるため過去を捨てシン・シティに身を潜めるドワイト。ある時、彼の恋人にしつこく付きまとう男を仲間ごと撃退するが、実はその男は警察官で、しかも娼婦街で殺されてしまう。その一帯を取り仕切る女はドワイトの昔の恋人で、この事件が発覚すれば警察との協定は破棄され、娼婦たちは窮地に陥る。彼女たちを救おうと一肌脱ぐドワイトだが・・・。＜3＞――少女の連続暴行殺人の犯人は街の実力者の息子。11歳の少女を人質に立てこもる彼をハーティガン刑事は埠頭に追い詰める。しかし、相棒の裏切りに遭い無実の罪で投獄される。８年後、出所した彼はかつて救い出した少女ナンシーが再び狙われていることを知り、最後の戦いへと向かう。</p>
<p>原作のコミックには全く門外漢なのだが、パンフレットなどで見る限り、そのダークな世界観はかなり忠実に表現されているのではなかろうか。タイトルどおりこの映画の主役は暴力に支配されたこの街そのものだ。白と黒のコントラストを強調した切れのあるモノクロ画面（パートカラー）に映し出されたハードボイルドの世界。コミック原作だけにあり得ない展開も多々あるが、テンポの良さと映像の力強さで一瞬も目を離せない。おなじみのハード・ヴァイオレンス描写も炸裂するが、モノクロなので現実感はなく、嫌悪感を催すほどではない。ただしＲ－１５なので子供たちは見ないように。ブルース・ウィリスやクライヴ・オーウェンを始めとして一流のスターが嬉々として非情の男や女を演じているが、場面は少ないながら最も恐ろしいのはイライジャ・ウッドとデヴォン青木ではなかろうか。二人ともセリフなしで容赦なく人を殺めるシーンはかなり不気味だ。そしてミッキー・ローク！ここ10年近く泣かず飛ばずだった彼が特殊メイクでマーヴ役を熱演し、圧倒的な存在感を見せている。</p>
<p>この映画の背景などはほとんどがデジタル・エフェクトで製作されている。普段からＣＧを多用するロドリゲスに対して、アナログ派のタランティーノの演出シーン（Ｃ・オーウェンとベニチオ・デル・トロの車内での会話）はいつものように話に関係のないセリフが多くて微笑ましい。冒頭に書いた『グラインドハウス』のロドリゲス編とタランティーノ編はどちらも彼らの個性が色濃く出ていて、今年の収穫の一つだった。ロドリゲスのような作家性の薄い職人的な監督には、こういう大人のためのエンターテインメント作品とどんどん世に送り出してほしいものだ。現在製作中の続編『シン・シティ2』の公開が待ち遠しい。</p>
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<link>http://www.jcomfukuoka.com/movie/remo/archives/2007/10/post_8.html</link>
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<pubDate>Thu, 11 Oct 2007 10:28:38 +0900</pubDate>
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