
障がいを持った子ども達のための養護学校を造った、曻地三郎さんのビデオを見て、人のために自分から動くことを改めて感じました。
私のいとこには、ダウン症という障がいを持った子がいます。成長がおそく普通の人と約二分の一おくれていて、十三才になって中学校へ入っても、その子は六〜七才の考える力と知恵しかありません。そのため、言葉を五〜十個しか覚えることができません。文字を書くことも、あまりできません。世話をするのも大変です。
でも、それはその子自信が望んで障がいを持って生まれてきたのではありません。何かの原因でなったのです。ですが本人はまだ八才なので、自分がダウン症という障がいを持っていることを知りません。だから普通の人の子のように元気に遊んだり、怒ったり泣いたり、笑ったりします。それは皆、だれもが生活の中で行っていることです。
少し普通の子とちがうだけで、ほとんどの生活は同じです。その子達をいじめて、自殺に追いこんだり、学校の場合、不登校にさせたりする子どもがたくさんいます。実際にダウン症の子も軽い、いじめにあっていました。
でもそのいじめを止める人達もいます。同じ人間なのに差別をすることはやめようと言う人もいます。それはすごく良い事です。
私はその人達のように、いじめは良くない、同じ生活をしている仲間だから、その人を受け入れていくことが大切だと思います。
養護学校には入っていないけれど、今は皆と仲良くすごしています。私は障がいを持った人が皆、普通の学校にかよい、同じ時間をすごしていくことができればいいと思っています。
曻地さんが自ら園長になって、その障がいの子を皆と同じようにすごせるようにと、かよわせて、自分の作ったおもちゃで遊んだり、子ども達と遊んだりして、ふれあうことで、お互いを理解していくことを学びました。

生まれた子どもが二人とも同じ病気になったら、「ありえない」って私だったら思うと思います。でも、その長男がイジメにあって、そういう事がきっかけで、自分達で障がいを持っている子どもを守る学校をつくろうって言っていた昇地さんの奥さんは「すごい」って思いました。ふつうだったら、そんな事は考えられないと思います。
私も、学校の授業で森さんという人から、お話を聞かせてもらいました。その人の病気は脳性マヒというもので、体が不自由になる病気でした。
森さんは子どものころからその病気を持っていて、中学生のころにイジメにあいました。そして、自殺を考えた事もあって、トラックが来ていたのを見つけて、走って飛び込んだと言っていました。けれど、自分が走っているつもりだったけど、トラックのスピードについて行けなくて、そのトラックを運転していた人が車を止めたから、死ねなかったと言っていました。その時に「自分は生きて、自分をイジメている奴らを見下せる人になる!」っていう決意をしました。
そして今、森さんはマジックで人を楽しませてくれるような人になっています。学校の授業での森さんはすごく明るくて、おもしろい人で、自分の昔の悲しい過去を話したあとも、すごく明るかったです。
森さんのような障がいを持っている人が安心して学校生活を過ごす事ができるのは、昇地さんが自分たちでつくった、「しいのみ学園」のような学校だと思います。しいのみ学園の校長先生は昇地三郎さんです。びっくりだったのは、百歳を超えている今も学校に行って、子どもと遊んだりしています。そして韓国語などの外国語を勉強していました。
しいのみ学園の中には、しいの木が植えてあります。その意味は一度落ちてしまった実は、種となって木となるから、そういうふうに子どもたちも…という意味で植えたそうです。
そんな昇地さんたちの前向きな考え方を私も見習いたいって思いました。

私は、しいのみ学園という名前を聞いたことはありました。しかし、今まではごくふつうの保育園だと思っていたのです。けれど曻地三郎氏の偉人伝を聞いてから、しいのみ学園の役割の重みを実感したと共に、曻地氏の偉大さにおどろきました。
しいのみ学園は障害者の人のための施設だということを知らなかった私は、そこからおどろいていました。曻地氏は息子が二人いました。その一人、有道くんは学校でひどいイジメにあっていました。階段を降りているときにうしろからわざと押されたり、物を隠されたりという悪質なことばかりされました。そのうえ、千人に一人という割合でかかる病気、「小児マヒ」になってしまいました。しかも次男の照彦くんも同じ病気になりました。曻地氏は息子の小児マヒがきっかけでしいのみ学園を造ろうと決心したのです。
しいのみ学園を設立後も、いろいろなことにチャレンジしたのです。六十三歳のときは、韓国語の勉強を始めました。九十五歳のときは、なんと中国語の勉強もやり始めたんです。きっと、私だったら勉強したくもありません。なのに曻地氏はいくつになっても努力家で好奇心おうせいなんだなあと感心しました。また、なによりポジティブです。どんなにつらいことがあってもなんでも前向きに考えることができるのです。そういう考え方を持っている人は、本当にうらやましいです。私は少しイヤなことがあるとすぐ、落ちこんで気持ちが暗くなります。今のところそんな私と曻地氏は本当に正反対の性格だと思いました。私も少しはポジティブな生き方がしたいです。
曻地氏の生き方は、本当に美しく、そして強いと思います。こういう人が、本当に強い人なんだと思いました。
曻地氏の生き方は、誰もがお手本にすべき生き方だと私は思いました。
私もこれから、毎日少しずつでいいから、曻地氏のようなポジティブな生き方を心がけてみます。それと同時に、曻地氏の生き方を私の周りの人に少しずつ広めていこうと思います。

昔のあの時代、今よりも差別が激しかったのに、その中で養護学校を設立できたのは、冷たい視線を浴びせられながらも差別をものともせずに戦い続けた曻地三郎さんの姿があったからだと思います。それは子どもが脳性小児麻痺にかかったことで新たに知った学校の実状があり、それを変えようとした一人の教育者の強い意志が現在まで伝えられていて、本当に大事な正しい心は、どんなに時を経ても次の世代に伝わっていくんだと感じました。
いつまでも学び続けようとする探求心は自分の人生の可能性を広げ、しいのみ学園の今を創りあげているのだと感じます。学校を卒業しても勉強は果てなく続いていき、人生を豊かなものにしてくれると知りました。
何かをやり遂げようとする力は曻地三郎さんの病弱な体をも打ち破って、生命力をみなぎらせてくれているように思いました。
「障がいを持った人へのイジメ・差別を無くす」ということ、「障がいを持った人にも学びやすい学校を作る」ということが曻地三郎さんの使命なんだと思います。
私は何かのために一生を費やすことができる人はすばらしいと思うし、私もそうなっていきたいと思います。目標を失い、物事に無関心である人生よりも、たくさんのことに貪欲に取りくんでいく人生は輝き、後悔することなく終えることができる、そしてその人は何よりもいきいきしているのを私は見ました。
私もこれからの生活の中で人のために尽くし、人を守りきれる人生でありたいと思います。自分の起こすささいなことでも正しいことをするというのが大切だと思います。その小さな取りくみがこの世の中での悪口やイジメをなくしていく一番の方法であり、世界平和へとつながっていくと思います。
いつも人のことを考えて行動できる力を養い、人のために行動できる正義の人に成長していきたいです。

「どこからこんなエネルギーが沸いてくるのだろう。」
というのが僕の曻地三郎さんへ対する第一印象であった。テレビの画面からはとても百二歳とは思えない。しかし、こんなエネルギーがあるからこそ「しいのみ学園」の教師をすることができるのだと僕は思った。
西暦二〇九五年、僕は百二歳になる。もし僕が生きていれば、セカンドライフを悠々自適に送り、温泉旅行にあけくれていることだろう。人のために尽くす仕事など百二歳にもなってするはずがない。
曻地さんは、日本初の養護学校「しいのみ学園」の創立者だ。この学校を創立するまでには、様々な苦労があった。
事の始まりは、曻地さんの二人の子供が、脳性小児マヒになったということだ。それが原因で小学校で大変ないじめにあった。
脳性小児マヒとは、『脳の発育期間中におこった脳の障害によって、運動障害をきたした状態』を指す。よって、言葉が上手にしゃべれなかったり、体を上手に動かせなかったりという障害がある。だからといって、その人をいじめるのはいけないと思うが、いじめがとてもひどかったため、曻地さんの子供は小学校を退学した。
そんな中で、曻地さんの奥さんから提案があった。
「だったら、障害者のための学校を作ればいいじゃない。」
この一言で曻地さんは動き出す。家にあるものをすべて売り払い、お金に換えて、ついに昭和二十九年、「しいのみ学園」を創立する。
小さきは 小さきままに 折れたるは 折れたるままに コスモスの花咲く
これは、曻地さんの作った歌だ。子供達を想う気持がよく表れている歌だと思う。一生涯を人に尽くす人生なんて、僕には想像すらできない。多くの犠牲をはらってまで、なぜ曻地さんは働き続けるのだろう。
それは、ひとりひとりのコスモスの花を、咲かせたかったのかな、と思う。
これからの僕には、何ができるだろう。神様から、僕にも才能が与えられているとしたら、小さなボランティアから始めてみようと思う。そして、大人になっても社会の中で人に尽くすことができる人間になりたい。

私は小学校の頃、遠足で何度か福岡城の近くを通ったことがありました。その時は「この城は誰がつくったのだろう。」など疑問をもちましたが、特には何も思いませんでした。
でも、このビデオを見て黒田如水・長政と福岡城にすごく興味をもちました。
福岡城は、福岡初代藩主黒田長政によって慶長6年(1601年)から7年かけて築かれました。前年に豊前国(大分県)中津から筑前に入国した当初は、小早川隆景の居城だった名島城に入りましたが、治政のつごうからここ福崎の丘陵が新しい城を築く適地として選ばれました。城の名前は黒田家再興の故地である備前国(岡山県)邑久郡福岡にちなみ、福岡と名付けられたそうです。私は長政はとてもすごい人だなあと思います。なぜなら、7年という短い期間でとても立派で丈夫な城をつくり、しかも30数回戦にでて、負けたことがなかったからです。城をつくるのも上手くて、戦も強いなんて…本当に長政はすごいです。黒田長政の父、如水も城づくりの名人で、豊臣秀吉の知恵袋になりました。また、如水がつくった石垣は他の石垣と比べてとてもきれいにつくられていたところです。城の隅々までていねいにつくる如水のこだわりもすごいなあと思いました。私が城をつくったら、きっと比べものにならないような城になるだろうなあと思いました。私がすごくびっくりしたのが福岡城がつくられて今年で401年目だということです。400年以上たった今でも櫓や石垣が残っているそうです。400年という長い年月がたった今でも残るということは今の日本の技術ではきっと難しいと思います。
私はあまり歴史は好きではなかったけど、ビデオを見て、興味をもち、自分でいろいろと調べていくうちに、いろいろなことが分かってきてすごく楽しくなってきました。私はこれからもいろいろなものに疑問をもったり、興味をもったら、そのままなかったことにしないで、自分でいろいろと調べたり、行動にうつしていこうと思います。
私はこのビデオを通して、黒田如水・長政に歴史の楽しさを教えてもらったような気がしました。そして、私達の住んでいる福岡の偉人たちのことをすごく誇りに思います。

「勉強なんて大嫌いだ!」受験まであとわずか。毎日、勉強、勉強、勉強…そんな毎日が嫌いだ。勉強なんて好きでやる人はいない。そう思ってた。あの人を知るまでは。
日本初の養護学校を運営。文学、医学、哲学を学び、六十三歳で韓国語、九十五歳で中国語を学ぶ。そんなスーパーおじいちゃんが、福岡にはいた。
曻地三郎。養護学校、「しいのみ学園」の園長を務めている。年をとるごとに体が弱まるどころか、元気に黒田節を踊る姿がテレビには映っていた。とても百歳を超えているようには見えない。それに、私が嫌いな勉強を何年も好んでやっているのだ。私には無理だ。受験勉強で押しつぶされそうなこの私には、そんなことできっこない。それに、学ぶことを好きにはなれない。受験まで一日、また一日、近づいて、やらなきゃいけないことや、不安とあせりだけが積っていく。勉強を楽しんだり、好んでやったりする余裕はない。勉強が好きな人の気持ちなんて私には分からない。なぜ、この人は学ぶのだろうか。
「いかなる子も、心に美しい実を持っている。」曻地さんは、そう社会に訴える。「いかなる子も?それって私も?実はどんな花を咲かせるの?」私はそう思った。
曻地さんの息子、有道さんは、幼い頃、脳性小児まひになり、手足が不自由でいじめられた。奥さんと共に、いじめのない学園をつくろうと、しいのみ学園をたてた。有道さんは、両親から、愛情一杯の温かい雨を浴びて一輪の花を咲かせたんじゃないかと、私は思う。しいのみ学園の子ども達も、曻地さんに守られながら、育ったんだろう。あの温かい学園で。そう思うと、曻地さんはすごいと思う。たった一人の思いから、多くの子ども達が救われるのだから。日本初の養護学校だ。苦労もあっただろう。でも、あきらめなかったから、今がある。今があるから、日本の社会は少しずつ変わってきたんじゃないか。なんてたくましい花だろう。なんて美しいのだろう。そして、なんと優しいのだろう。
私の心にも、美しい実はあるのだろうか。花は咲くのだろうか。どんな人の愛や、どんな努力をすれば、花は咲くだろう?今はまだ、寒い冬。身も氷りそうな寒い冬。ただ、じっと耐えて、耐えて、耐えて、温かい春が来るのを待とう。下へ、下へと根を伸ばし、春になったら、花を咲かせよう。まだ、小さく、はかない花を。
そしてまた、新しい季節が始まる。

私は、曻地三郎さんの人生を見て今の自分がとても恥ずかしくなった。曻地さんの人生は、幼い頃は体が弱く、結婚してできた子供は障害を持っていた。長男は学校でイジメに合い、数年後に生まれた次男も長男と同じ障害を持っていた。千分の一という可能性なのに。その時、曻地さんは「死のう。」とまで考えたそうだ。確かに、曻地三郎さんはとても素晴らしい方だと思った。だが、この時に、「私達の子のように障害を持った子が安心して行ける学校をつくりましょう。」と言った妻のつゆ子さんも素晴らしい方だと思う。
つゆ子さんの一言で、しいのみ学園ができたのではないかと思う。このしいのみ学園ができて喜んだ人は、ごくわずかかもしれない。けれど、たくさんの人が障害を持った人に、親切にしよう、とか優しくしよう、とか様々な感情を持ったと思う。
現在、百才をこえておられる曻地三郎さん。六ヶ国語を話せて、医学や教育など、たくさんの博士でもある。そして今でも、勉強することを続けている。本当に福岡の偉人である。
私は今中学三年生で、受験を控えている。自分が知らないことは、この世に数え切れないぐらい存在しているはずだ。私は、その知らないことを、たくさん吸収しなければならないと思っている。けれど、曻地三郎さんの人生は、私の思いを少し楽にしてくれた。今の私の思いは、今知らないことをできる限り知ろうと思っている。勉強は義務と考えることが無くなった。
今の社会は昔よりも、障害を持っている方や高齢の方に優しくなってきているとは思う。けれど、まだ歩道に段差があったり、階段にスロープが措置されていない所がたくさんある。障害を持っている方や高齢の方にとっては、まだ十分ではないと考えている方がたくさんいると思う。そのためにも、費用と時間をかけて町の障害を無くさないといけない。けれど、普通の人でも、小さなことかもしれないけれどできることはたくさんある。そのできることをするかしないかが、偉人になるかならないかの分かれ道ではないだろうか。

黒田如水、長政親子は、どちらも豊臣秀吉に仕え、やがてその実力を徳川家康にも認められ、見事に大名へと上りつめた。関ヶ原の戦いの後には、五十二万石という、諸大名の中でもかなり大きな石高、土地に封ぜられている。あの家康にもかなり軍功や才を認められていたということだろう。
今まで僕はあまり知らなかったが、この黒田親子はかなりの戦上手のようだ。如水(孝高)は秀吉に仕えてから多くの戦いで秀吉軍を勝利に導いている。また情勢を見極めることにも長けていて、最初に仕えていた君主に信長につくよう進言したり、関ヶ原では豊臣家から離反し、東軍についている。戦国乱世を生き抜くための知恵と先見の明を持っていた人なのだな、と感じた。
このように黒田如水はかなりの智将で、秀吉の軍師というべき存在でもあっただろう。
だがこのように頭の良い如水でも、いつも順風満帆ではなかったようだ。秀吉家臣時、敵方へ使者として行ったときに捕えられ、一年もの間、幽閉されてしまったのだ。それで片足は動かなくなってしまった。にも関わらず、それ以降も「かご」に乗って戦に出陣し続けたそうだ。実に勇気ある行動であり、これぞまさに、「文武両道」だと思えた。
如水は築城の名人としても知られる。言うまでもなく福岡城は如水の名城である。一つのことだけでなく、いろいろなことをできるのが、戦国大名の条件といえるだろう。
ところで長政は、やはり戦上手で武断派の人物だった。関ヶ原では見事な戦いぶりで、東軍の勝利に貢献したとのこと。五十二万石はその手柄と、家康からの称賛だ。それを賜ったとき長政は、家康から手を握られて感射されたという信頼感と感嘆を得ている。
ところがそれを聞いた如水は、
「何故そこで家康を討たなかったのだ。そうしていれば、お前が天下人だったのに。」
と、言ったそうだ。如水とは、なんと深謀のある人だろうか。なんと油断ならない人であろうか。そのような人物だからか、家康も如水には一目置いていた。覇者に重く及われるというのは大人物でなければできないことだ。
考えてみると、如水らは大器晩成型の人間だと思える。若い頃からいろいろと苦労して、その結果、大領主になれたのだ。もちろん、個人の力だけでなく、家来たちの助力のお陰だろうが、大成するのはその人の努力の結果だ。名将軍の繁栄が、この町にある。
これからの僕にも、いろいろと、ピンチやチャンスが訪れるだろうが、ピンチの時は諦めず耐え忍び、チャンスの時は逃さずに生かし、大成したいと思う。今回初めて黒田如水と長政について考えたが、自分の力を最大限に生かせれば大成できるのだ、と感じた。それをやってのけた二人は尊敬に値する。