
受験の季節、菅原道真は学問の神様として登場するが、小説の中の彼は、京都の怨霊として闊歩する。しかし、現実を生きた彼は太宰府に左遷してより、悲しいほど女々しく、切なく私の目には映る。三者三様だが、一人の人間の評価なのである。彼の有名な歌に、「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」とある。本当の彼は、やはり悲しいほど切ないのである。
京都では、宇多天皇の力を借りて右大臣まで駆け上がったが、藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、大宰府の南館の粗末な宿舎で生活した。いまの榎社である。梅を愛で、帰りたい帰りたいと一心に京を思い、涙したのではないか。「恩賜の御衣はいまここに在り拝げ持ちて日毎に余香を拝す」の詩で解るように、天皇にもらった衣に残る香をかいで毎日京ばかりを思っているとは哀れである。大宰権帥の仕事は無く幽閉に近い生活だったと言われており、神様としての姿は微塵もない。だから、憎しみを大きくふくらませて雷となり怨霊となったと人々の脳裏を支配したのだろう。たしかに、憎しみは大変なものだったと思う。また、道真は学問の道をある程度心得たかもしれない。しかし、二十六歳の時、官吏試験受験の成績が中レベルであったと言われており、学問の神様と結び付くか疑問である。人間が初めて神様になったとも言うが、北野天満宮のイメージ作戦であり、策略だとも言え、これも疑問である。
道真が没した延喜三年から、京の都で疫病や旱ばつ、洪水と続いた。それに、高位高官の死、藤原菅根も死に、続いて藤原時平が死んだ。また、左遷を決定した醍醐天皇の皇太子も死に道真の怨霊の祟りは強烈なアピールを伝えた。北野天神縁起絵巻に怨霊におびえる官人が画かれている。
この頃は科学が未発達で、自然現象と道真を結び付け、自分達の都合で雷にしたり怨霊にしたりしている。恐怖から来る人間の性というか、恐怖からの逃避として道真の死後の霊を静めようと、左大臣にしたり神社の策略で神様にするのは滑稽としか思えない。
私は、きっとそんな人間の行いを、道真があの世で大笑いしていると思う。そんな力は僕にはないよと。

道真公についてこれまで私が知っていたことと言えば、学問の神様・天神様ということとよく人口に膾炙されている「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主人なしとて 春を忘るな」という太宰府左遷を嘆く和歌位だった。そして子供三人の受験の時は太宰府天満宮へ家族中で合格祈願のお参りに行った。霊験あらたかで三人共合格させてもらい道真公に心から感謝したことを思い出す。
今回の放送で道真公はこの身近なイメージの他にも色んな側面をもった人物であることがわかり驚くこともあった。平安時代前期の学問のチャンピオンであると共に右大臣にまで昇りつめた現世利益追求の代表の政治家でもあった。そして同時代のほとんどの人は忘れさられているのに、道真公は学問の神様として誰もが記憶している。雅俗交響の人生を送り悲劇に遭い死んで怨霊にまでなって最後は神様になるという数奇な運命を辿った人なんだなあと思った。
公は若い頃はガリ勉一筋。心を許せる友はいたんだろうか。頭でっかちのいやみな奴ではなかったんだろうかとも思った。しかし妙に人間臭さも感じられて、逆に親しみもわいてきた。
高学歴を背景に現在のキャリア官僚のようにとんとん拍子の出世をし、宇多天皇の厚い信頼を受けて鬼に金棒。恐らく天皇の藤原氏対策の用心棒的存在であったと思う。
出世頭の人が同僚から、なんであいつだけが…とねたまれるのは今も同じ。最大のライバル藤原時平にうとまれ、文人仲間のねたみも買ってしまった。遣唐大使任命も讃岐下向もやはり左遷だと思う。公はこの二回のピンチは何とか乗りきったものの、最後は太宰権師へ左遷、というより罪人として流され非業の死。典型的な知識人の悲劇という印象を受ける。
公の家族関係はどうだったんだろうと思って調べてみると若い頃は勉強に忙しくて妻子と睦まじくすることを廃めてしまったとのことだから、エリートの家族は今も昔も苦労が多いと思った。太宰府左遷の時は、妻は都に残り、息子達は全国に散り散りとなって幼い子供だけが公と行動を共にしている。最後のよるべの家族との別離は年老いた身には本当に辛かったろうと思う。
また政治家としての道真公は、税制改革・土地改革等の王朝国家の先駆者でもあったようだ。ライバルの藤原時平が必要に迫られたとはいえ、公の案を実行しているのはその証拠だと思う。その時平も三十九歳の若さで亡くなっている。そして現在私共の記憶にはない。
道真公は死後怨霊となって藤原氏を苦しめ雷神となって今も私共庶民の誰もが知っている。たった二年間の太宰府ぐらしだったが、道真公は間違いなくふくおかの偉人の一人となった。道真公は時空を越えて私共の心の中に将来とも生き続けていくと思う。

中秋の日曜日のこと「ふくおか偉人ものがたり」の菅原道真を見た。語りの人も、イラスト書きの人も面識はないが、ここに放映されている絵と、語り口も、小学生から高齢者まで広範囲の年代層にも分かり易く素晴らしい。ほのぼのとした詩情が溢れている。
ここに描かれている絵、すじがきの地名、人名それぞれに、学生のころ習っていて馴染があり、左遷された道程の中で福岡市に縁が深く、袖の湊の綱場町に上陸され(跡地に綱輪天神を祭る)途中、四十川(薬院新川)の清流で、みすぼらしい自分の姿を写し見て、なげき悲しまれた場所(天神トーカンビルの裏)に雷橋がある。この近くに村人が姿見天神を建てたと思われる。
ここで雷橋についてふれてみる。画面で述べられているように彼は、学問のうえでも頭角を現わし三十三歳で文章博士となり、次いで、右大臣にのぼりつめたが政治のライバル、藤原時平の作り話を、天皇が真に受け太宰府に左遷され、失意のうちに五十九歳で安楽寺の境内で病死し、波瀾万丈の生涯を終える。
ところが、彼の死後。時平の急死、天皇の崩御、宮中清涼殿が落雷で炎上するなど全国各地で雷鳴が激しくなったので「道真が雷神となり、自分を罪に陥れた人々に仕返ししているのだ」と、ささやかれた。
また、雷除けの呪文「くわばら、くわばら」を唱えれば、よけてくれる。と云う伝承は、菅原家の領地には桑畑が多く、不思議に、そこには雷が落ちなかった。そこで、人々は近くに雷鳴が聞こえると、呪文を唱える風習が全国に広まったと伝えている。薬院新川の雷橋は、近くに姿見天神があった証である。
そこで黒田長政も一六〇一年。築城の折、姿見天神の社を福岡城の鬼門に当る現在地に雷神を移して、水鏡天神宮と改めた。天神町の地名も、天神を祀ったから由来する。
道真の足どりをたどれば、四十川のほとりから幼い子二人と家臣一人をつれ、とぼとぼと歩き、西区の庄を経て早良区の入部、小笠木を通って太宰府へ向っている。
タイトルが「ふくおか偉人ものがたり」だから、福岡市の行程を話されると、茶の間の皆さんが、道真公を、もっと身近に感じられたのではないかと思う。
老境にさしかかった今、若いころ覚えた人物伝の復習にもなり、次は「おっぺけぺ」節で一世を風靡した川上音二郎。そして貝原益軒の処世訓。さて、さて何が飛出すやら興味津々である。と同時に、先輩たちの歴史を記憶にとどめるにも、この番組を企画されたプロデューサーに脱帽!最敬礼!!である。