
私は勉強が嫌いです。だから、貝原さんについてのビデオを見て、なんでこんなに勉強するのか不思議でした。
貝原さんのすごいところは70才まで仕事をし、それから後も休むことなく著述業に専念したことだと思います。私はまだ無中になることを見つけていないから、良く分からないけれど、老後くらいはそれも止めて、のんびりしたいんじゃないかと思うし、そうしたいです。でも、私は貝原さんがうらやましいです。それは、生涯やり通したいと思えることを見つけているからです。私は中途半ぱなことが多くて、どれも「このくらいやれば良いだろう」と止めてしまいます。そこから一歩踏み出そうとしても、なかなか上手くいきません。でも、貝原さんのビデオを見て、色々なことを学んだりしていくことが楽しそうだな、と思いました。だから、中途半ぱなのを止めて、大人になるまでくらいには生涯やり通したいと思えるようなことを見つけたいです。
貝原さんと私は逆に思えるけど、一つだけ共通点があります。それは読書好きです。小学校のころから図書館が大好きで、たくさん本を貸りました。小六くらいから古い作家さんの本を母の実家のたなからたくさん持ち帰り、分からないことを調べ、何度も読み返しました。しかし、ここでも貝原さんとの違いが見つかりました。それは、私は家の中に閉じこもっていることです。貝原さんは自分の足で歩き、見て、触って…また自分との差を感じました。書物にとらわれることなく、実証主義的な面を持つ貝原さんの様になりたいと思いました。そこで一歩を踏み出してみました。本に書いてあることを試してみようとカメラを片手に出かけました。言いすぎかもしれないけれど、本当にびっくりしました。世界が違って見えました。本に書いてあることは見えません。想像で終わります。でも実際にやってみることで目の前にあるというすばらしさ。貝原さんの気持ちが少し分かったようで嬉しく思えました。
貝原さんが教えてくれたのは、とにかくやってみろ!夢を持て!そういうことです。貝原さんが実際残した言葉でも、言った言葉でもないけれど、そういうことです。私が胸をはって夢を持てた!と言える日はきっとまだ先だと思うけれど、そんな日が来るように頑張りたいです。

私は小学校の頃「オッペケペー節」を聞いたことがありました。政府のとりしまりが厳しい当時にあんな歌をうたっていて、勇気がある人だなと思っていました。でもこの歌を作った人物に興味がありませんでした。
このビデオを見て川上音二郎という人を知ることができました。音二郎はとても強い人だと思います。それは「力・暴力」という物ではなく言葉で、自分の意見を伝えることの強さです。伝えたい事を、「オッペケペー節」のように楽しく伝えています。でもその歌詞には、なにか不満などが表らわされているようです。
それには当時の時代の背景があると思います。当時の日本では「自由民権運動」などがあっていました。警察官である音二郎はそれに、参加してはいけない立場なはずです。また、いままで男性がしていた劇に女性を出演させたり、他の人はやれないようなことをやっています。人に何を言われようと、やりたいことはやるという 姿はすごいと思います。
今、社会問題にもなってしまった「いじめ」。私のクラスではあっていませんが、悪口など聞いた時、私は止めることができません。「いけない事」とはだれもが分っている事だと思います。でもそれを口にしたり、伝えたりできません。聞かないふり、見ぬふり、それはすごく簡単です。止める勇気が大事だと思います。音二郎にはその「勇気・強さ」がありました。悪い事を止める勇気ではないけれど私にできない事なのですごく尊敬します。
音二郎は、言葉で気持ちを伝え、言葉で をこわしました。言葉の力って、当時も今もすごく大きなものだと思います。当時の人は音二郎の言葉をどう受けとったのでしょう。「この人変なの。」と思ったのか「この人おもしろいな。」と思ったのか。どっちにせよ、音二郎の言葉、現代、未来まで伝えられています。
「人を傷つけるのも、元通りにするのも言葉」。だったら、良い事につかいたい。みんなが自由に使えるからこそ、ちゃんと考えて使わないといけないと思います。「自分らしさ」と「言葉の大きさ」を音二郎があらためて教えてくれました。

博多区古門戸にある小さな神社、その入口のそばに「川上音二郎生誕の碑」がたてられています。私は、この石碑の前を通って毎日学校に通っています。「きれいな石碑だな」とか「川上音二郎って誰だろう」など思ったりしましたが、それ以上のことを考えたことはありませんでした。しかし、ある日J:COMを何気なく見ていると、偶然にも「川上音二郎」について紹介されていました。驚くことばかりで、気づくとそこには映像に見入っている私がいました。
見入ってしまった一番の理由は、彼の前向きな生き方です。わずか十四歳で船にしのびこんで家出をしたといわれています。先のあてもなかったのかもしれませんが、そこには「何か大きなことをやってみたい」という熱い思いがあったのではないかと思います。音二郎はこのとき、きっと苦しかったはずです。が、そういうときにこそ貴重な体験をしたのではないでしょうか。寺で修行をしたり、慶應義塾大学で手伝いをしたり、世の中はこれでいいのかと悩みながらかさを修理して歩き、京都で警察官になったりなど。その経験のすべてが町人芸人になったときにいかされるのです。オッペケペー節を思いついたのも、庶民でも見られる安い劇の上演を始めたのも、これらの経験がいかされたからではないかと思います。そして、何よりも、音二郎の前向きな生き方がそうさせたのではないでしょうか。また、音二郎のつくった芸は、男性が女装をする時代に本物の女性が登場するという革命的なものだったそうです。そのころの時代の文化と異なる違う発想をすることができたのも、いろいろな経験やそのときの思いをいかしていったからだと思います。そのように前向きな生き方をした川上音二郎は、とても尊敬できる人でした。
さて、今回J:COMで興味をもった川上音二郎を調べながら思ったことが一つあります。歴史上の人物でも音二郎を調べるだけでも福沢諭吉のような関わりある人物が登場して、さらにその人物を調べてみるとまた新しい人物が出てきます。このように、人のつながりの大きさをただただ感じるばかりで、私自身もいろいろな人との出会いを大切にしていきたいと改めて思いました。
私は、このテレビを見て、好きだった歴史がさらに好きになりました。今では、石碑の前を通るたびに、自分でも知らず知らずの間に意識して見てしまいます。音二郎のことやほかのいろいろな人物のこと、さらには博多の町のことをもっとたくさん知りたいと思うようになりました。
私たちの住む博多は、古くから多くの偉人が登場し、長い歴史と深い伝統や文化にあふれた町です。そんな博多の町が私は大好きです。

今、生きている人々は、本やテレビ、ラジオや口頭といった手段で情報を手に入れ、それをただ受け入れています。僕もまた、テレビで見たり、授業で知った事を、
「そうなのか。」
と思っているだけです。けれど、歴史に名を残す学者や発明家はきっと違います。知っても、
「何故そうなるのか。」
と疑問を持ち、実際に試してみたり、
「おもしろい。」
と思って、その物質や技術を応用したりして実験してみるのだと思います。貝原益軒もまた、そうだったようです。
益軒は、書物を読むだけではなく、実際に見たり、触れたり、あるいは口にしたりしてそこに書いてあった物事を確かめていたそうです。しかし、僕や、僕の年代の子供は、教科書や本に、甘い。と書いてあると、何も思わずに、甘いと決めて、覚えてしまいます。けれど、きっと益軒は、それだけでは納得できなかったのでしょう。僕は、このことをまねることのできない、益軒のすごいところだと思います。
益軒は、七十歳になっても、その行動力やより多くの人の役に立ちたいと願う気持ちは変わりませんでした。益軒が書いた本のほとんどは、仕事を終えた七十歳より後で、当時としては、かなり長い、八十四年の人生を終えました。僕は、益軒がここまで長生きできた理由も、七十歳を超えても、本を書き続けられたのは、自分が好きなことをしていたからだと思います。幼いころから読書家で、体の弱かった益軒は、自分の本で、誰かの病気を未然に防ぐことができるのが、うれしかったのでしょう。
僕も、将来、せめて老後には好きなことをしたいと思います。けれど、それを叶えるためには、今は、色々な知識をつけなければいけません。けれど、疑問があれば益軒を思い出して、せめて近くの図書館くらいには、行きたいと思います。

私はこのビデオを見る前から「オッペケペー」のことは知っていました。なぜかというと、一年生の社会の時間のとき先生が私たちに歌って聴かせてくれたからです。そのとき楽しい気分になって踊りたくなりました。こんな不思議な歌を作った人はきっと「面白い人なんだろうなぁ。」と思いました。だけど、このビデオを見て川上音二郎は面白いだけではなく、賢くて度胸がある人ということが分かりました。
また、私と同じ十四歳で家を出て、たった一人で大阪、東京へ行ったということを知ったとき、もし私ならこんな勇気がいる行動はできなかったと思います。苦しいことや辛いこともあったかも知れません。それでも、めげずに頑張っていろんな経験を積んできた音二郎だからこそ、歌舞伎や落語に出会えたんだと思います。
先輩たちに負けたくないというささいな気持ちからできた「オッペケペー」だけど、今でもこの歌は歴史に残ったすばらしいものとなりました。
結婚してからも演劇界を大いに盛り上げて常にすべての人を楽しませたというところが博多っ子の表れではないかと思います。
私はこの「オッペケペー」を通じて博多を知り、私のように興味をもってくれる人が一人でもいたら嬉しいし、川上音二郎に感謝したいと思いました。
音二郎からたくさんのことを学びました。少しの勇気をふりしぼって一歩前へ進むと、自分の知らなかったことが発見でき、自分自身が成長することができるということや、人を楽しませるということはすごいことだということなどを私は音二郎の生き方から感じとりました。将来、音二郎のようにはうまくいかないかも知れないけど、自分の人生を誇れるような生き方をしたいです。
最後にビデオで、音二郎は演劇界に革命をおこしたみたいと言っていました。その革命は「オッペケペー革命」ではないかと思います。そしてこれから私たちは、また新たな歴史を作っていき、福岡の偉人をもっと増やしていきたいと思います。

天神さまとは、学問の神さま、受験の神さまとして知られている菅原道真の愛称である。また、道真は平安時代の代表的な学者、詩人としても知られている。
少年時代の道真は勉強が得意で特に文章面で優れた才能を持っていた。時の天皇である宇多天皇は道真の学問の深さを讃えて異例の出世をさせた。しかし、その出世がおもしろくなかった当時の権力者・藤原時平は宇多天皇の子・醍醐天皇の時代になると「道真が天皇を退け、謀反の気持ちがある」と天皇に告げた。当然、怒った天皇は道真の右大臣の位を取り上げ大宰府に名前だけの役人として左遷した。その時に道真が詠んだ歌の一つに
「東風ふかば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて春をわするな」
というのがある。この歌からは都を離れたくない道真の沈痛な思いが分かると共に、道真が梅の花を愛していたことも分かる。このためか道真のことを天神さまとして祀っている神社には梅の木がたくさん植えてある。
さて、道真は大宰府に流されてから二年後に都へ帰ることもなく息をひきとった。その後、権力者・藤原時平や醍醐天皇の皇太子なども次々と息をひきとっていった。そして、道真の死後二十七年目に皇居に雷が落ちた。この雷が原因で醍醐天皇は病死した。これらのことが立て続けに起こったので、人々は無実なのに流された道真の怨霊の仕業だと確心していた。そこで、道真の怨霊を鎮めるために神社を作り、道真を神さまにしたのだった。つまり、道真は恐がられて神さまになったのだ。しかし、時が流れるにつれて道真の祟りは忘れられ秀才ぶりが人々の憧れとなっていったのだった。
道真が政治家として、やりとげたことは現代の日本の伝統ある文化の土台となっていると思う。道真が、中国の様子を判断して国内の文化を発展させるために遣唐使を廃止しなければ、世界的名作と言われる紫式部の「源氏物語」も誕生しなかったと思う。
大宰府に流されたことで失意と絶望のどん底にあった道真。それでも、生き続け、死にたいとは思っていなかった道真に怨念などがあったのだろうか。道真は自分の名前が残らなくても日本の改革が成ればいいと思っていただけかもしれない。